現在の日本人の宗教との関わり方について、今は大きな転換期だと思います。
そもそも日本人の場合、宗教が習慣上のものになっていて、信仰というものではなくなっているように感じています。
クリスマスやって、年末の除夜の鐘撞いて、それで神社に参る。海外のしっかりとした信仰を持っている方々からすると日本人の信仰とは?なんと節制ががないのかな?と思われてしまいそうです。
逆に言うとこれが、日本人の平均的な信仰というものではないでしょうか。
日本人の一般的なスタイルになっています。
それでも自分の家はお寺の檀家だし、お墓を持っているしということから、だいたい、仏教なんだろうとは思っていても、団塊の世代には多い、とくに田舎から出てきた人たちは、その仏教のうち、何宗、そして何派に属しているのか、知らないという人も珍しくありません。
それでも、宗教に全く興味のない人でも、お寺の本堂で座っていると、何とも言えない気分になるとか、あるいは教会で美しい讃美歌を聴くと、すごく静謐な気分になったりします。
その場の宗教性を感じる力があります。
無宗教を標榜しているからといって、宗教性が乏しいわけではなく、非常に感度の良いアンテナをもっているのだと思います。
中世の歌人西行に、「何事のおわしますをばしらねどもかたじけなさに涙こぼるる」という、伊勢神宮を詠んだ歌がありますが、何という神様かもわからないままで、道端の小さい祠にも、涙を流すというような感覚が日本人にはあります。
日本人にとっては、神道と仏教はそう簡単に分けられないものです。
仏教が伝来した飛鳥時代からずっと神仏習合の文化だったからです。
どちらか選択しろといわれても、片方を選択できる人はほとんどいません。
やむをえず「無宗教だ」と答えます。それだけどちらも深く根付いています。
これだけ宗教が自然に根付いている国は、珍しいと思います。
また、神道と仏教は、きちんと棲み分けがあって、生まれてからすぐの間は神道の儀礼が続き、お宮参り・七五三・成人式・結婚式もある時期までは中心でした。
死んでからは仏教という流れの中でそれなりの秩序があります。
キリスト教徒なら毎週教会に行ったり、イスラム教徒は一日五回お祈りしたりします。
日本人はそういうことはしないけれども、むしろわざわざ儀式をする必要がないぐらい、根付いているといえます。
人々はなぜ宗教を求めるのでしょうか?
結局は心の安寧を求めているのです。
宗教を考えることは、よく死ぬことだと思います。
どう死ぬかという予習なのです。
よく生きることができれば、心穏やかに死を迎えられるのではないでしょうか。
死の予習をすることが、よりよく生きることにつながる。それが宗教を考える意味であると思います。